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1965年8月に「同和対策審議会答申」が出されて50年。その後「同和対策事業特別措置法」をはじめとする幾つかの法令が出され、同和問題の解決に向けて努力をしてきましたが、偏見や差別が解消されているとは言えません。
そこで今年は、福岡の村(被差別部落)で起きた受難(濡れ衣)事件「松原五人衆」につい ての伝承をもとにつくられた絵本「『いのちの花』絵:丸木 俊(『原爆の図』の画家)」の作者でもあります園田久子さんにお話をお聴きしました。
被差別部落で子どもたちの教育に携わり、部落問題と向き合ってこられた先生の熱い思いが伺えました。
※「差別」って・・・命に(社会的)な(色がつく)こと
もともと、穢れた人がいたわけではない。日本の社会・文化の穢れ思想(だけではない)が穢れた(とされる)人をつくり出した。
※1871:1922:
1963:1965:
1969:1971:
※1972:2002:
※同和教育(保育):不自由?楽しくない?・・・・自由で、楽しい!
※「絵本」:ともに、生きたい私のチャレンジ!・・・Tのこと。
〈1年の 計りごとをなさんとするものは (米を植える) 〉
〈10年の 計りごとをなさんとするものは (木を植える) 〉
〈100年の 計りごとをなさんとするものは (人を植える) 〉
補足:レジメの( )の空欄を埋めています。
講演中の園田先生
今日、命や人権をめぐる状況は言いがたく厳しいものがありますね。「いじめはしてはいかん!」と日本中で云っていると思うのですが、いじめも自殺も後を絶たない。原因は色々あると思うのですが、私は私たちの教育の言葉が力を失っていると思うのです。教育の商売道具は体罰ではなく、言葉です。言葉はどんなにも駆使できる道具ですが、言葉は生きもの、生ものでごまかしはきかないですね。
18才で博多に出てきて、部落問題にはじめて出会いました。10代の終わり近くで私は福岡市内のある「むら」の中学生に英語と数学を教える講師として通いはじめました。無知200%だったと思います。
無知というのは、ただゼロではありません。自分の言動が人を傷つけたという自覚もないのが無知です。無知は、だからマイナスです。その「むら」にまず10年くらい通いました。そして、少しずつ気づかされ自分の言動・差別性が見えるようになりました。
そこでかけがえのない方々に出会いました。貧乏アルバイト学生・院生の私を10年余雇って下さったのは某隣保館館長の井元麟之さん(もと全国水平社書記局長)。この「むら」では特別措置法以前から、「人を植える」営みがなされていました。講演のテーマにもしていますが、「100年の計りごとをなさんとするものは『人を植える』」というのは井元さんが語りつづけていた言葉です。人を育てる「教育」ということをこれほど的確に平易に云った言葉に私は今も出会いません。苛酷な差別に出会いどんなに蔑まれても、人間の誇り高くかつ知性がそびえているような方でした。
もう一人いつも井元さんのところに来られていた部落史の研究者、警察官をしながらの独学者・松崎武俊さんにもよく𠮟っていただきました。被差別部落の農業化論に関わる論文などを次々に発表し、部落の生産と労働の評価を提起されていました。このお二人の半生かけた労苦で「福岡部落史研究会」(今の人権研究所)が40年前に発足しました。彼は『菜の花』などの絵本も3冊描き残されています。
現場の教員をして、同和教育の専任もしていたりしていましたが、ここ20年位たまたま大学で人権論の講義をしてきました。4月と9月の講義の始まりの時無記名のアンケート(「部落や部落民とは何か。覚えていること」)をとっています。毎講義の感想とかも。上下関係の身分図などの知識的な間違いはもちろんですが、何で今ごろ同和?、そっとしておけばいいのに!、人のいやがる仕事・・・などマイナスイメージが強いのにははじめ、絶望しました。けれど、彼らは間違いなく同和教育を受けてきた世代です。いいわけでなく、出てきた結果から自分(たち)の同和教育の中身を照らし、問おうと。もちろん数は数人とかでも「差別を無くすのに頑張ってきた人」という文言もあります。「差別されてきた人」と「無くすのに頑張ってきた人」とでは随分違います。
背景・原因の一つは、まぎれもなく、私たちの同和教育の中身の問題。教材なども含めたパターン化、差別はいけないという「答え」の押しつけ、禁句指導的になりがちな授業の質・・・それらの底流にあるのは部落問題についてのタブーの深さだと私は感じています。他の教科に関してはさまざまな工夫や豊かなハウ:トウをするのに、テーマが部落問題になると、ストンとトーンが墜ち硬直してしまう。それは私も含めた部落問題へのタブー意識の問題だと。人は命を受けつぎますが、考え方も(偏見・刷りこみ)受けついでしまう生きものですから。皆さんは如何ですか?
そこで、もう一つの原因は歴史的な背景にあるように思います。日本社会で部落問題の記述がなされたのは、小学校1972年、中学校1973年です。今年は同対審答申50年ですが、その答申に基づいて特別措置法が制定され、政治(行政)が部落問題をとりあげたのが1969年。ともに1871年の通称「解放令」から、100年前後の時が経過してからです。国策樹立の請願運動など解放運動の成果として、融和的にではなく、政治や教育がとりあげることになって40数年。その渦中にいなかったものにとって、その事実は誤解を恐れずに云えば、政治や教育において唐突に同和問題が始まったかのように見えます。「ねばならない」というように外から。
政治や教育が取りあげなかった100年はまさに国レベルで「そっとしてきた!?」100年と云えるのではないでしょうか。同和教育を受けてきたはずの若者にも「寝た子を起こすな」が根強い由縁です。
聞き入る参加者
50年近く通いつづけている「むら」、私の絵本の「むら」はかって救急車や消防車の通る道路がなく、陽が当たらない多くの家屋がありました。33年間の行政施策の法律によって、この「むら」はきれいに見ちがえるように変わりました。これも人間らしい生活の実現、客観的な目に見える人間の解放です。けれど、先の水平社の老闘士のじいさまはきれいな部落を実現しつつ、死ぬまでこう言っていたのです。
『私たちが求めているのはきれいな部落ではない。私たちが求めているのは人間の解放だ』と。部落がいくらきれいになっても「あっこはね・・・」と差別的な人は云いますから。最後の人間の解放?・・・それは目には見えないけど、ここ(胸をたたく!)にあるものではないでしょうか。ここにあるものの根深さ、それが問われていると思います。それこそ教育、啓蒙・・・「100年の計りごと・人を植えること」ではないかと思います。井元じいさまの云っていたことが“今こそ”と思うのです。
こういう人権に関わる学び・研修は、今日の私の講演も「答え」ではありません。問題提起、一緒に考えていただく問題提起です。揺さぶりです。
けれど一つだけ譲れないことがあります。それはレジメにもありますが、差別する人がいるから→差別される人がいるというこの矢印だけは変わらないと思います。なぜなら、これが変われば、もともとどこか穢れた人がいるから差別する人がいるとなりかねない、差別される側に原因があるということになりますから。
差別は「する側」の問題ですから。
最後に、私の絵本『いのちの花』の原画の映像をお見せします。自分が受けたこともない差別の悲しみや怒りを言葉にすることは至難でした。けれど、誰からも云われることなく、なぜか書きたい思いが湧きだしてきて・・・。五人が殺された瞬間の「言葉」とそして「絵」が一番困難でした。言葉は「俺たちゃ 人間の腹から生まれた人間ぞ」でしたが、最後に「人間ぞ」の三文字を消し「・・・・・」にしました。それは私の「答え」で、それぞれが自由に考えることこそ大切だから。
絵については丸木俊さんのアトリエ(埼玉県丸木美術館)まで、出かけた私は、今まで人間扱いされたことのない人たちが「殺された瞬間に人間になった!」「殺された瞬間に解放された!」という絵をかいて下さいと最後の懇願をしました。絵が描けない私は言葉で迫るしかなかったから。そして、送られてきた最後のその一枚をみて、わたしは絶句しました。それは五つの魂と端から端までパープル系のグラデュエイションで描かれた俊さんの“お浄土”でした。老眼鏡に拡大鏡を握りしめて点を打ちつづけた83、4歳の俊さん。あまりにきれいだったので、私は(自費出版本)はそのページを私の詩(言葉)で汚せず、次のページに詩のみ載せました。
絵本は私のチャレンジです。「むら」の人々の痛みや悲しみが解るから書いたのではあり ません。一緒に生きたいなあ!という私のチャレンジです。
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