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| (平成14年8月号) |
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| 別府公園にある油屋熊八記念碑 |
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旅人をねんごろに
油屋熊八はアメリカで修行していた時、ならず者に取り囲まれてケガをしそうになりました。その時、通りかかった牧師に助けられたのが縁でキリスト教に改宗しました。そして聖書の中にある「旅人をねんごろにせよ」、つまり「旅人にはおもてなしの心(ホスピタリティ)で接しなさい」という言葉に大きな感銘を受け、それが熊八の生き方の原点になったのです。 熊八は明治44年に、婦人がいた別府に落ち着き、婦人が経営していた亀の井旅館(後に亀の井ホテルと改称)を手伝うことから別府生活をスタートしたのですが、宿泊客に対する熊八のサービスは徹底していました。ロビーに投書箱を置き、「お食事はいかがでございましたか」「女中やボーイに不行き届きはございませんでしたか」など4項目について記入してもらい、客へのサービス改善を怠りませんでした。 熊八は亀の井旅館に2メートル四方もある世界各国の国旗を全部揃え、5人以上の外国人団体客が泊まった時は、その国の国旗を玄関前に掲げて歓迎の意を表しました。また、ホテルのホールでは歓迎ダンスパーティーも開いて外国人客を喜ばせました。大正年間にいち早く国際的ホスピタリティーを発揮した熊八はやはり偉大な先覚者でした。 熊八は客の安全にも気を配り、宿泊客が盲腸炎にかかったのを契機に、ホテルに看護婦も常駐させるようにしました。こうしたきめ細かいサービスで亀の井の名声は高まり、有名人など上客の宿泊もふえていきました。これらの人々が口コミだけでなく、文芸作品になどでも別府をとりあげるようになり、別府のイメージアップにつながりました。
熊八は大正15年に亀の井ホテルに宿泊した詩人でフランスの駐日大使だったポール・クローデルを、自家用車で地獄や湯布院まで案内して回りましたが、同氏は熊八の手厚いもてなしに深く感動し、別府の素晴らしさを詠った有名な詩を書いて熊八に贈りました。 一度でも泊まったことがある宿から年賀状が届けば悪い気はしません。泊まり客を大事にした熊八は泊まり客はもとより、旅行業者や出入り業者、交通業者などに自筆の年賀状を書きまくりました。年末にまとめて書くのではさばききれないので、1年中暇さえあれば年賀状を書いていました。その数、年間5,6万通、1日に百数十通書かなければ追いつかなかったというから、大変なエネルギーでした。 人をアツと驚かせる独特の話題を提供して多くの人を集める…これは観光振興の鉄則です。熊八は並みはずれたアイディアで、派手なPRを繰り広げて別府を売り込んでいきました。 昭和2年、大阪毎日新聞が全国から「新日本百景」を募集しました。別府温泉の宣伝に役立つことなら何でもとことん利用した熊八でしたから、早速はがきを山のように買ってきて、市民に配り応募してもらいました。その結果、別府温泉は堂々トップ当選。普通ならば観光関係者が新聞社にせいぜいお礼に行くくらいでしょうが、そこは熊八。当時、空の便の花形だった水上飛行艇をチャーターしてきて、新聞社に行くかたわら、「当選御礼、別府温泉」と書いた大量のビラを神戸と大坂の上空から撒き散らして、両市民のドギモを抜きました。 熊八は別府温泉のPRを国内だけでなく海外でも広げたいと考えていました。その夢は親友の凡平によって果たされました。クリスチャンの凡平は別府の協会で信者のために日曜学校を開設していたので、昭和3年6月、アメリカで開かれた世界日曜学校大会に招かれたのです。熊八は凡平のアメリカ旅行を別府宣伝に利用することにしました。凡平の頭にはキンキラキンの派手なかぶとをかぶせ、きらびやかな陣羽織を着せました。 全国初のガイド付きバス 熊八のアイディアの中でも特に秀逸なのが、全国初の女性のバスガイド付きの遊覧バスを別府で走らせたことで、これは数ある彼の業績の中でも代表的なものです。 熊八は亀の井ホテルに自動車部を設け、流川入り口の旅館の一部を借りて待合所にし、桟橋前の国道にピカピカの大型バス4台をズラリと並べました。このバスは25人乗りのアメリカ製で、横浜の港に水揚げされましたが、その頃の日本の狭い道路を走らせるには大きすぎて買い手がつかなかったのを、熊八がわざわざ横浜まで出向いて月賦で買ってきた代物でした。 こうして昭和2年、日本の観光バス史上さん然と輝く女性バスガイドを乗せた地獄めぐり遊覧バスが発車したのでした。そしてただガイドを乗せるだけでなく、熊八は別府温泉の案内を美しい文章にまとめて、それをバスガイドにしゃべらせることにしたのです。 運良く、その頃、熊八の遠縁で、文才にたけた薬師寺という青年が亀の井バスに入社しました。彼が名所案内用の解説を作詞しましたが、彼の作品は名句、名文だっただけでなく、晴天、雨天、霧がかかった日など天候や季節に応じて書き分けたキメ細かいもので、それにガイドの姿勢やリズミカルな解説の仕方、「ここで唄を挟む」など、非常に詳細なマニュアルも添えてガイドをみっちり指導したので、地獄めぐり遊覧バスの評価が高まったのも不思議ではありません。 美人ぞろいのガイドたちは唄うがごとく、読むがごとく、流れるような名調子で案内していきました。その一部を紹介します。まず、バスが発車して間もなく
先を見る目のすごさ 将来の観光客のニーズをつかみ、いち早く手を打つ先見性も観光振興には欠かせません。この面でも熊八は卓越していて、先を見る目の確かさ、視野の広さはすごいものがありました。そして素晴らしい行動力も発揮しました。 大正年間の中ごろまで、別府にもっとも多くの入湯客を運んできたのは大阪商船(関西汽船の前身)でした。しかし当時の別府には本格的な桟橋がなく、船は沖合いに停船して、乗客ははしけで突堤まで運ばれていました。このままでは海からの客は増えそうもないと考えた熊八は大阪商船の本社に単身で乗り込んでしぶる同社を説得し、北浜に同社が桟橋を造ることを承諾させたのです。そして、大正6年、北浜に桟橋が完成。同9年にはモダンな造りの支店事務所と待合所もできて、北浜の桟橋は別府の立派な表玄関になり、関西方面からの入り込み客も飛躍的に増えていったのです。 アメリカでゴルフの面白さを知った熊八は、別府でもゴルフ場を作りたいと考えていました。そして日本でまだゴルフが普及していなかった大正15年、当時の南端村に格好の土地を見つけてきて、大阪商船にゴルフ場建設を働きかけました。同社も別府の近郊にゴルフ場ができれば、大阪商船利用者も増えると快諾。昭和の初めに当時は日本有数のゴルフ場となった別府国際ゴルフ場がオープンしたのでした。 空港建設・九州横断道路をいち早く提唱 熊八が生存していた昭和初期は旅客輸送の主役は鉄道と船でした。こうした時に熊八は将来は飛行機による旅客輸送の時代が必ず訪れると信じていました。昭和9年、熊八は別府の郊外に国際空港を建設することを提唱しました。しかし、その頃は空の時代の到来を信じる人はなく、翌年、熊八は他界してしまったので、空港建設は惜しくも実現しませんでした。安岐町と武蔵町にかけて、新大分空港が開港したのは熊八死後40年が経ってからでした。
昭和の初期といえば日本ではようやく金持ちが運転手つきの自家用車を持ち始めた時代でした。この頃熊八はすでに、日本でも将来、大衆にマイカーが普及し広域観光交通時代が訪れると予想していました。そして彼は昭和3年、直入郡久住町の郵便局長や観光協会長、町長などを務めた親友の工藤元平と手を組んで、別府―湯布院―久住―阿蘇―長崎を結ぶ沿線市町村に呼びかけて、九州横断道路建設を呼びかけたのです。二人が火をつけたスケールの大きい観光コースつくりは、昭和4年1月、正式に大分、熊本、長崎3県と沿道の主要市町村による「九州横断国際遊覧幹線建設期成会」結成となって実を結び具体化の道が開けたのでした。 それから35年後の昭和39年、東京オリンピックの年にやまなみハイウエイが開通しましたが、熊八すでに亡く、まだ存命していた元平は「この素晴らしいハイウエイを生みの親の熊八に見せたい」と泣いたそうです。 熊八精神でまちおこし 以上紹介してきたように、熊八はいろいろな面で、観光振興の指針を別府市民に残してくれました。 熊八を巡るエビソードはまだまだ数多くありますが、「平成の熊八」を目指し、別府のトップセールスマンを自認している井上市長は市内各層に「熊八に続こう」というムードを高めるため、今年別府の主要施策の一つにホスピタリティを定め、熊八の装束姿でいろいろな会合で油屋熊八物語を講演しています。熊八精神は別府が全国に誇れる「一村一品」であり、別府のまちおこしの源といえるものです。 |